むかし戦国時代といって、日本の国内で、戦が方々でくりかえされていたことがありました。そのころ、武士は戦場に出て勇ましく戦って、手柄を立てることが、一番の名誉で、戦って死ぬことも、武士の本望(本来の望み。もとからの志)といわれていたのです。そのころのことです。ある国に、一人の武士がおり、戦に出かけることになりました。武士は、妻とまだ幼い一人娘を残していくことには、大変心残りでしたが、殿様の命令ですので、勇ましく戦に出かけました。
敵は大勢で押し寄せてきました。こちらの武士たちは、力をあわせてよく戦ったので、はげしい戦いののち、こちらの勝ちとなり、一同は元気に故郷に帰ってきました。
ところが、この親子の父は帰ってきませんでした。父が戦に出てからの親子は、朝に夕に、神や仏に手を合わせ、父が手柄を立てて、無事に帰って来るように、お祈りしていたのです。親子は気が気ではありません。
心配のあまり、帰ってきた人たちに、たずねましたが、父が戦死したのを見た人もなく、どうしたのかまったくわからないということでした。「そのうちに、ひょっこり帰ってくるかも知れないよ、きっと。」という人たちのことばに、はかない望みをかけて待ちつづけま
した。
しかし、それもむなしく、いつまでたっても父は帰ってきませんでした。とっくに戦死してしまったのか、まだどこかで生きているのか、何の手がかりもありませんでした。「おとうさま、おとうさま」と、毎日父をしたって泣いている、いじらしい娘の姿に、母は居たたまれず、「お父さまを探しに行きましょう。」と母と子は、巡礼姿になって、どこともあてもない父をたずねる旅に出かけたのです。
黄色に美しく咲きそろった、菜の花畑のつづく野道を通ったとき、娘は思わず、「おとうさま!」と大声でさけんで、涙にむせぶのでした。娘がずっと幼いころのある夕暮れ時でした。家に帰る途中、菜の花畑を通ったとき、「花をとって!」といって、父にとってもらったことを、ふっと思い出したのでした。
五月雨のころには、雨にぬれた着物を、だれも住んでいない、村はずれの小さなお堂の中で、夜どおしかわかしたこもありました。
また、暑い暑い夏のある日、けわしい山の峠を越えていきましたが、かんかんと照りつける日の下で、のどはひりひりとかわき、母は急にめまいがして、道ばたに倒れてしまいました。運よく通りかかった一人の旅人に助けられて、無事に峠を下ることができました。こうして、苦しい旅はいつまでも続き、何年かたちました。家を出るとき持っていたお金は、とうに使いはたし、それからは行く先々で、お金や食べ物を恵んでもらい,親切な人の家の物置小屋などにとめてもらったり、お寺や神社の縁の下に寝たりして旅をつづけたのでした。ふだん、あまり丈夫でなかった母は、永い年月のこうした苦しい旅の疲れで、病気となり、親切な人の家にとめてもらい、看病してもらったこともたびたびありました。
こうして、つらい旅をつづけて、いつしか下野の国(栃木県)にやってきました。寒い寒い冬のある日、仙波の瀬戸野の里に通りかかった時、折から降り始めた粉雪の中で、母の病が重くなり、ついに道ばたに倒れたまま動けなくなってしまいました。あたりには人家もなく、娘は母にとりすがって、「母さま、母さま、しっかりして!」と叫びながら、母のからだをさすったり、からだにおおいかぶさるようにして、そのからだをあたためていたのでした。さて、次の日の朝、積もった雪をふみしめながら、通りかかった村人が、雪にうずもれて、冷たくなって死んでいる親子の姿を見つけました。しっかり抱きついて、はなれない親子のなきがらを見た村人たちは、「かわいそうになあ、夕べのうちに、わしの家をたずねてきてくれたら、いくらでも泊めてやったのに・・・」
「そうだね、そしたら助かったのになあ。」と、みんな涙を流して悲しみました。
そして、そのまま二人をいっしょに埋めてやり、心をこめて供養をしてやりました。それから、その墓のそばに、松の木を一本植えました。この松の木は、幹が二本に分かれ、一本は大きく、一本は小さく、その形が親子が抱き合っているように見えたので、これは親子の霊が、この松にやどったのだろうと「親抱きの松」と名をつけ、ここを通る人は、みなていねいに頭を下げ、親子の霊をなぐさめたといいます。そして、次のような歌が今に伝えられています。
「心ある人に見せばや下野の瀬戸野の里の親抱きの松」
なお、大正六年の六月に、当時の石川村長はじめ、村の人々が、このいわれをいつまでも残して、子孫に伝えようと、たくさんのお金を出しあって、お墓のそばにりっぱな記念碑を建てました。その時、むかしこの村の領主だった宗対馬守の子孫である宗重望という方が、敷地を寄付され、また記念碑のてんがく(石碑の上に篆字で彫った題字)の字も書いて下さったということです。
また、数百年たった親抱きの松は、すばらしい大木に成長し、高さ十五間(約二十七メートル)もあったそうですが、昭和九年七月三日、落雷のため枯れてしまいました。ほんとにおしいことをしました。