『氷室ばあさん』

むかし、むかし、奥氷室の氷室山神社にひとりのおばあさんが、神社を守っていたそうです。

このおばあさんは、大変お風呂が好きで、雨の日も風の日も、一日も欠かさず、大荷場のある家に、お風呂をもらいにやってきました。

片道十キロ余りあるけわしい上に暗い山道を、ちょうちんも持たず、その上、いつも一本歯の高下駄をはいて、通ったとのことです。

このことが、村のひょうばんになりました。このおばあさんは、いつ、どこからきたのか、また、名前さえわかっていないのです。村の人は、氷室ばあさんと呼んでいますが、いったい何者なのでしょうか。物好きな若者たちが集まって、話し合いをしました。

そして、「このおばあさんのあとをつけて、正体を見とどけてやろう。」ということになりました。

ある晩のこと、えらばれた若者の何人かが、おばあさんに気づかれないように、暗い山道を帰っていくあとをつけていきました。ところが、村はずれまで行くと、地理にあかるい若者たちでしたが、とうとうその姿を見失ってしまったのです。

それもそのはず、おばあさんの歩くことの速いこと、一本歯の下駄をはいたおばあさんに、わらぞうりをはいた元気な若者が、とても追いつけなかったということです。

 そこで、あのおばあさんは、ただ者ではない、ひょっとすると人間じゃない、狐か狸か、いや神様じゃ、それともてんぐ様かもと、村中この話でもちきりになりました。

 ところが、そんなうわさを知っているのか知らないのか、おばあさんは、あいかわらず毎晩お風呂をもらいにやってきました。ある晩、風呂の主人が、「おばあさんや、遠い山道を、真っ暗なのに、よく来なさるが、こわかないかね。」と聞きました。

「いや、わたしは、氷室山のてんぐ様がついてなさるで、途中まで帰ると、いつもお迎えにきてくださるんで、ちょうちんも何もいらんのさ。奥氷室なんてほんの一時だよ…」といい、何気ない風に笑うのでした。

その顔を見ていた主人は、頭から水をかぶったように、ぞっとしたそうです。

恐ろしくなった主人でしたが、別に何のめいわくをかけるでもないこのおばあさんに、それからも、ずうっと気持ちよく、お風呂に入れてやったということです。

 

今でも、奥氷室の神殿あとの南西の方に、氷室ばあさんの墓標があり、「いざなぎのいきのみこと」と書いてあるそうです。