今から四百年ほど前のことです。唐澤城主佐野家の家来で、藤坂与三という武士が、ある夜、藤坂峠から明神山のふもとにさしかかったところ、「おぎゃあ、おぎゃあ」と赤ちゃんの泣き声がしました。今ごろこんな暗いところを、赤ちゃんをおぶって通る人があるのか、それとも赤ちゃんが泣くので、泣きやむまでお守りをしているのかと思いましたが、それらしい人影も見えません。
では、捨て児でもいるのかと、泣き声をたよりにさがしたところ、草むらの中に赤ちゃんではなく、夜目にも青白く光って見える周囲一尺(約三十センチ)ほどの玉石があり、その石から赤ちゃんの鳴き声がしているのです。
「はて、ふしぎなことよ。」と、この石をとりあげたところ、泣き声はぴたりと止んだのです。気味が悪くなった与三が、その石を下においたところ、また火の点くように、はげしく泣き出しました。ますますあやしく思った与三は、このままにほってはおけないというので、地元の人と相談して、この石をご神体(神の霊としてまつるもの)として、一つの社(神社)を建て、小藤神社(小児の小と、藤坂の藤)と号し、藤坂与三の先祖である天児屋根命(あめのこやねのみこと)を神霊(みたま)としておまつりしました。天正元年(一五七三年)のことです。 なお、神にまつられてからは、その石から泣き声は聞かれなくなったということです。
その後、土地の人はこれを氏神さまとして崇敬(あがめ、うやまうこと)してきましたが、特に赤ちゃんが夜泣きして困ったとき、この神社に祈願したところ、たちまち夜泣きが直ったというので、評判になり、地元の人はもちろん、遠くの町や村から、お参りにくる人が多かったといいます。
この神社の霊験あらたかなことにより、宝永六年(一七〇九年)九月二十日、正一位小藤大明神の称号が送られました。
今も中地区の氏神さまとして、春は四月十五日、秋は十月十五日に祭が行われています。