旧葛生町(葛生町の前身当時の葛生地域を言う)当時(昭和24年)に制作されました。葛生地区の石灰産業を讃えた歌詞です。
葛生小学校を会場として、旧盆(8月)には、町民そろって踊られました。現存する録音テープでの歌詞は、一番から順に歌われず、一番、三番、五番、創作番の4曲が録音され、唄われてきました。
作詞者:高橋掬太郎・・・「酒は涙か溜息か」等作詞
作曲者:大村能章・・・「同期の桜」「旅笠道中」等作曲
「常盤音頭」は、旧常盤村当時(昭和25年)に、常盤村駐在所巡査であった中山中夫氏によって作詞され、吉水町に疎開していた服部逸郎氏の作曲です。さらに、当時の常盤小学校の音楽教諭浅野一男先生によって編曲され、当時の青年団バンド「さくらバンド」によって演奏され、録音されています。地域の踊りにするために、浅野一男先生の妹の浅野ツル子さんによって振り付けがなされ、今日まで踊り伝えられています。後述している「羽鶴小唄」と一緒に親しまれ、地域の盆踊りで唄い踊られ、平成28年で63回目の盆踊りとして伝えられています。
これらの制作の経過と踊り方は地域の研究家船田実氏執筆の「常盤音頭・羽鶴小唄誕生物語」に掲載されています。
常盤音頭と同様に氷室村時代に常盤駐在所巡査の中山中夫氏の作詞です。制作年は不明ですが、常盤音頭と前後して制作されたものと思われます。踊りも振り付けされており、氷室村の盆踊りには踊られたとの長老の記憶に残されていますが、楽譜や音源の保存がないため、今となっては再現が困難な状況になっています。
作詞:中山中夫・・・栃木県内の駐在所巡査として勤務。日本作詞家協会に属す。配属された地域の唄を作詞
し、曲として地域に提供してきた。近隣では、「吉水音頭」「飛駒音頭」「常盤音頭」などを制
作された記録はあるが、他の地域では曲として伝え残されていないのが残念である。
作曲:田村しげる・・・戦後のコロンビア専属作曲家。東海林太郎等に曲を提供。「白い花の咲く頃」「リラの花
咲く頃」等作曲
「羽鶴小唄」は、昭和29年5月に制作され、同年9月に日本コロンビアレコードより発売されている。作詞は西条八十氏、作曲は古賀正男氏、唄は神楽坂はん子さんです。踊りの振り付けは、初代の西崎緑氏が行っています。なんと豪華なメンバーで制作されていることでしょ!。
葛生地域の石灰ドロマイト産業最盛期において、不二ドロマイト工業㈱の工場長小山眞七氏の尽力で制作されていますが、この経過を話すと長くなります・・・。詳細は、「常盤音頭」同様に、船田実氏著書の「常盤音頭・羽鶴小唄 誕生物語」をご一読いただければ詳しく知ることができます。
この羽鶴小唄はレコード化されており、葛生地区には現在3枚しか残っておらず、無傷の盤は、葛生伝承館に保存されています。
現在は、CD化され、常盤小学校・常盤中学校や公民館において活用されています。常盤地区の盆踊り(8月の旧盆)では毎年踊り伝えられています。
作詞:西条八十・・・童謡詩人。「東京行進曲」「蘇州夜曲」「青い山脈」「赤い鳥」「王将」等作詞
住友大阪セメント㈱の前身である岩城セメント㈱の社歌も作詞している。
作曲:古賀正男・・・マンドリン演奏で有名。「丘を越えて」「影を慕いて」「柔」「悲しい酒」等作曲
唄:神楽坂はん子・・・古賀正男、西条八十によって見出された。「ゲイシャワルス」などヒット。
踊り:西崎緑・・・・正派西川流を18歳で名取。独立して西川流立上げ。「とんち教室」のレギュラー。
「水木の田植え歌」は古くから、氷室村(旧水木村地内高実子集落)において、農作業の田植えの際に唄い伝えられてきました。記録では、幕末から明治のころは農作業時に唄われたとのことです。この唄は、田植えの時以外に唄うと「たたり」があると言われ、季節以外は唄わなかったと云い伝えられています。地元民によっての唄は、昭和10年頃までは年中行事の際唄われておりましたが、その後の衰退に憂いた地元民雄姿によって、児童による伝承を働きかけ、今日では地元の氷室小学校全児童によって劇化され、唄とドラマ仕立てで伝えています。