嵯峨天皇の弘仁十一年(八二一年)の秋、仙波の瀬戸野から羽鶴峠に向かって、山道を登って行く二人の旅僧がありました。空は青く澄みわたり、赤とんぼが群れとび、道の両側には、すすきの穂が秋風になびいて、秋の気配がただよっていました。二人の僧は長い間旅をつづけてきたのか、顔はすっかり日焼けし、身にまとった衣は、ほこりにまみれていました。
しかし、その顔はやさしさに満ちた中に、一目見て頭がさがるような気高さがありました。それもそのはず、この旅僧こそ、諸国を巡って、仏の教えをひろめながら、行く先々で、困っている人
の心と生活を救っておられた空海上人と弟子の真海でした。
二人は峠を越えて、出流山満願寺に行く途中でした。峠の頂上にたどり着いた上人は、杉や桧などの生い茂るあたりを見廻したとき、ふと霊感というのでしょうか、心に強く感じるものがありました。そこで、上人は真海とともに、草の上に座って、永い時間お経を唱え祈祷されたのです。
それから、前にそびえ立つ一本の杉、それは根本から幹が二本に分かれて、一本は高く、一本は低かったので、土地の人は親子杉と呼んでいました。この杉に目をつけられた上人は、大きな杉をえらび、真海にて手伝わせて、一夜のうちに地蔵尊を彫られたのです。「一晩中、羽鶴峠の頂上あたりに光がさし、風にのってお経の声がかすかに聞こえてきた。」と、よく朝、村人の話題になりました。そこで、村人は峠にいってみるとどうでしょう。立派な地蔵さまが立木に彫られているのです
びっくりした一同は、思わず地面にひざまずいて伏し拝んだということです。空海上人の彫られたこのお地蔵さまのことが、たちまち各地に知れわたり「もったいない。ありがたい。」と人々は深く信仰するようになったのです。
ところが、永い年月がたった冬のこと、付近の山が火事になり、燃え広がり、このお地蔵さまも燃えそうになりました。村の人々は、お地蔵さまを焼いてしまっては申しわけないと、力を合わせ一心に防いだのでしたが、火の勢いはつよく「もうだめだ、仕方がない。」といって、お地蔵さまを木の根もとから切りはなして守りました。
ところが不思議なことに、火はお地蔵様のあった杉の木の近くで消えてしまい、もう一本の杉の木は助かりました。そこで、むらの人たちは、この木の前に小さなお堂を建ててお地蔵さまを安置しました。立木に彫られていた地蔵さまなので、「立木地蔵尊」と呼ばれるようになり、土地の人はもちろん、ここを通る旅人、それに遠くからわざわざお参りにくる人など多くの人々に信仰されて今日に至っています。
さて、焼けずに残った一方の杉は、年を経るごとに大木になり、昭和五年に文部省より「栃木県名所旧跡並びに天然記念物・空海上人地蔵彫刻の杉」と指定されてから広く世の中に知られ参拝者も多かったのですが、残念なことに昭和二十五年の夏、この杉の大木に落雷があり惜しくも枯れてしまいました。
空海上人は、亡くなられてから、弘法大師の称号がおくられ、真言宗の開祖として敬われている高僧です。弘法大師の作られた立木地蔵尊は、全国に二体あります。仙波のほかに、もう一体は、大師の故郷四国で、今の愛媛県温泉郡久抜村に安置されているといわれています。仙波の立木地蔵尊は、市の文化財として指定され、毎年五月四日には、厳かに供養が行われています。なお、このお地蔵さまについて、次のようなご詠歌が残されています。
「二本に(ふたもとに) わかれし杉は のちの世と この世をつなぐ ちかいなるらん」